steps to phantasien

ホッピングの話

hopping

友人知人など、私のまわりには転職しようと考えている人がいつも少しずついる。 彼らに限らず、プログラマは割と頻繁に転職している気がする。よしよし、と思う。 世の中にとって良いことなのかはしらないけれど、 ジョブホッパーの身からすればそういう人が増えるほど私自身の角が立たなくてすむ。 類として呼ぶ友を求める心境。

私ほどのヘビーホッパー(ぜんぜん自慢になってない)ともなると、 たまにホッパー予備軍から「転職どうなんですかね」と水を向けられることがある。 そんなとき、酔った勢いなどで私はいつもでたらめを口走り後悔している。 そこでシラフのうちに自分用のテンプレを書いておくことにした。 正誤はともかくせめて主張を一貫させたい。 さいわい今の職場はもうしばらくいる気がするから、テンプレの陳腐化は心配しなくてよかろう。

私はおおむね行きがかりと衝動で職場をホップしており、そこに長期的な思惑はない。 ただ戦略はともかく数はこなしているし、周りでもよく目にしている。 おかげで経験からの lesson learned なら少しはある。 職場をうつるのがどんな気分か、みたいな体験談もある。 私のテンプレは、若干の経験則といくつかの体験談から書き上げることができそうに思える。

心配すること

まず経験則からはじめよう。Should がはいってるやつ。 といっても改めて書きだしてみると目ぼしいのは一個だけだった。それは 入社できない心配よりうっかり入社してしまう心配をすべき ということ。

ある会社に入ろうとするのは、一般にさほど大変ではない。 「大変でない」というのは「入れる」という意味でなくて、 入るにせよ入らないにせよ手間はたかが知れてるということ。 基本的には書類を書いて面接をうけるだけ。交通費プラス数日、あとはたまにスーツ代。

面接で断られてもそれ以上の被害はない。 すごくがっかりはするけど、たとえば女の子にフラれるみたいなダメージはない。 人格を否定されたり罵倒されたり遠まわしに嫌味を言われたりもしない。 もちろん入ると決めたあとは給料や最初の出勤日をゴネたり引越したりと少し大変にはなる。 しかし入ろうとして入らない/入れないコストは限られている。

それに比べて会社をやめるのは大変。大変すぎてやめられないという意味でなく、 いろいろ手間がかかるということ。同僚に迷惑をかけるのは心苦しいし、 やめると決めたあとにやる気を保つのは大変だし、税金や年金もややこしいことになるし、 相手が悪いと上司に絡まれたりするする・・・相手が悪いとね。 こうした心労が何週間もつづく。

面接で断られた印は残らない。けれど会社をやめた印はのこる。 ジョブホッパーの烙印を押されてしまう、気がする。端的にいうと履歴書に書かないといけない。

そんなわけで会社は入るよりやめるのが大変。 にもかかわらず、世の中のホップ希望会社員の中には入れない心配ばかりしている人がいる。 胸に秘めた素敵企業を「あームリムリ」などと相手にせず求人サイトを眺め、 この会社聞いたことないけどアットホームな研究開発型って書いてあるしいい会社かもな・・・ などと言いだして話を聞きに行ったりする。 そして話を聞きに行ったはずがなんだか面接ぽくなってしまい、 情が湧くのか断りにくいとその会社に決めてしまう。少しおかしな相手の選び方だと思う。 だって仕事がいやになったら会社やめたくなっちゃいますよ?

人はなぜこう振舞ってしまうのか。 私の仮説は大学受験や新卒採用の記憶が考え方を歪めているというもの。

大学受験や新卒採用のような期間限定バッチ採用は断られると浪人や無職になってしまう。 だから保守的になる気持ちもわかる。バッチ採用だけでなく、 なにかの都合で無職になった状態から収入源を探すときもさっさと決めたくなるだろう。 でも同じ感覚でホッピングをするのはたぶん心配する方向が違う。

ホッピングは断られてもがっかりと時間の無駄遣い以上の被害はない。 今の仕事を続ければいいし、折を見てまた別の会社を試してもいい。 会社員のホッピングは大学受験より引越しに似ている。 相場が全てではなく、不動産屋にいくとたまに思わぬ物件がみつかる。 引越しそれ自体はちょっと面倒だけど内見するのは簡単。そんなかんじ。

相場

すべてではないところか、相場がぜんぜんあてにならないところは引越しと違う。

求人情報に載った企業情報が売り込む「高い技術力」が 「アットホームな職場」くらいのシグナルでしかないのは、 ホッピング愛好家ならみな知っている。 でも人はこれを笑えない。 自分自身に対する評価だって果たしてどれほど正しいのか。

私の勤務先では勤務評定の際に自己評価を書く。 加えてピアレビュー(世間では360度評価とか言われてるやつ)がある。 ピアレビューでは資料のひとつとして同僚の自己評価を読む。

そして、人々が書く当人の長所短所は私から見て半分くらいしかあってない、ことがある。 あってる人もいる。でもあってない人もいる。

たとえばメチャクチャややこしいコードをバグなくずばっと書ける人がいる。 でも長所のところにはそれが書いていない。 たぶん当人にとっては当たり前なので書いてないんだろうけれど、 しょっちゅうエンバグしている私から見るとまったく当たり前でない。 なのに書いてある長所は、まあそうかもしらんけど プロジェクトとは関係なくね?みたいなものだったりする。

一方にはきちんとコードを書けることを長所に挙げている人がいる。 その人がコードを書けないとは思わないけれど、 むしろ面倒そうな仕事を率先して引きとったり、 プロジェクトでトラブルがおきたときに自分の仕事を中断してトラブルシュートをしたり、 バグフィックスの対応が早かったり、私からみればそんな責任感こそが尊敬につながっている。

私自身の自己評価もきっと半分くらいは的外れなのだろう。 いちおう毎度フィードバックはあるんだけれど、 人間都合の悪いことはすぐ忘れちゃうからね・・・。

そういうわけで自己評価なんてものはさほど当てにならない。 採用側の示す人材の条件もいまいち不透明。 曖昧で不確実な話をもとに下す判断なんてたかがしれているとおもう。 Garbage in, garbage out.

ホッピングハット

hat

話がそれた。

「あームリムリ」という気分を招く背景について、このごろ思いついた仮説がもうひとつある: 人によってはパリっとした気分で色々やるのがしんどいのかもしれない。

あるとき知り合いの既婚者にいかにして嫁をみつけるべきかを説教されたことがある。 お前はもっとパリっとした格好をして場数をこなすべき、要約するとそんな主張だった。 そのときはほっといて欲しいと思いつつ聞き流した。 けれど説教の節々がホッピングに関する私の主張と似ていることに気づき、 何かが腑に落ちた。

ホッピングの準備に負担があるとすれば、 それは履歴書や面接で自分を売り込む心苦しさだろう。 普段の仕事をしているとき、 自分がなにを達成して組織にとってどれだけ有用で云々などと考えることは多くないと思う。

仕事で頭を使うのは何か不透明なことがあるとき、何かがうまく行かないときだ。 ぬかるみを前に足を止め、なにがまずいのかと当たりを見回す。 それからぬかるみに視線を戻してうめく。頭をよぎるかなわぬ願い。 アスリートばりにコードがかければ、怒涛のように英語がまくし立てられれば、もっと先を見通せれば… そんな願望をため息であしらい、自分に出来そうなことを探す。 あてにならない、だましだまし転がすポンコツ。日々の仕事に映る自分の姿なんてそんなものだと思う。

履歴書を書くときはまったく違う自我、 できる会社員であるところの自分、心の底に眠るミサワを呼び起こす必要がある。 ブレインストーミングなんかで意識的に立場を変えて考える シックスハット みたいな方法がある。帽子の比喩にならうなら、履歴書を書くときはホッピングの帽子をかぶらないといけない。

ポンコツとミサワの自己像はかけ離れており、2つの間をスイッチするのはしんどい。ホッピング帽のかぶり心地もよくない。 2つはコインの裏表、コップの水のレトリック のバリエーションなのだと理屈ではわかっている。けれど好きになれないことがあるのもわかる。 パリッとしたシャツやおしゃれメガネを受け入れがたいとき、 女の子のいる宴会をパスしたいときがあるのと同じだ。

そんな類推から気分にあわない annoyance の押し売りはやめようとおもった・・・ ものの、酒を飲むとついエラそうに説教しがちなうざいおっさんには自制が求められる。 パリっとしない平和な日々を共に生きよう。

そういえば今の勤務先は年に何度かある勤務評定の際に社内レジュメみたいのを書き、 見える場所においておくことになっている。結構めんどくさい。スイッチがいる。 ただみんなで渡る赤信号感と英語による他人事感にも助けられ、最近は割りきって書けるようになってきた。 案外慣れるものだなあ。宴会が得意な人々も日頃から鍛錬(?)してるんだろうね。

誰でもよくない方がいい

うっかり入社を心配した方がいい反対側の理由は、 採用する側にもうっかりがあるからだ。 とりあえず人が足りない!コードが書ければなんでもいい! といった勢いで人を集める会社はけっこうある。 「コードが書ければ」と条件がついてるだけマシといえばマシだけれど、 まったく好みに合わない仕事をしたりさせたりするのはお互いしんどい。

若い組織やがさつな管理職は、自分たちの仕事が誰にとっても素晴らしいと信じている。 その信念は前に進む力にもなる。でも雇用を決めるときはもうちょっと慎重になって良いと思う。

むかしある米資ソフトウェア会社の日本法人が出すエンジニアの求人に応募したことがあった。 私は募集要項に書いてあったソフトウェアを知っており、 それを作るのは張り合いがありそうだ思っていた。レジュメでも訴えた。

インタビューをこなしたあと返事を待っていたら、 数日後に応募元チームのマネージャからメールが届いた。 ちょっと話を聞きたいので飯でも食おうという。 私はミサワ帽をかぶり直してタダ飯にでかけた。

話の内容はやや意外なものだった。 採用を進めようと思っているが、お前はほんとにこの仕事で満足できるのかというのだ。 仕事の内容はサポート業務がメイン。たまにバグ修正があるくらい。 他チームへの異動も多くはない。 おまえのしたいソフトウェア開発とは違うかもしれないが、それでもいいのか、 長く働けるのかと念を押された。

説明は要項に書いてあるとおりのものだった。 けれどそのときの私はアメリカハイテク企業ひゃっほーいと浮かれ気分でおり、 仕事はなんとかなるだろうと高をくくっていた。 しかしそのマネージャは、何とかならない可能性を事前に申し開いたのだった。

マネージャ氏が示した慎重さには強い印象を受けた。 それまでに私が見てきた採用担当者の態度は 「そこそこコードが書けそうな頭数を確保できればめでたしめでたし」みたいなのがほとんどで、 雇った相手が仕事に満足できるかを気にする様子を見たことはなかった。 しかし実際のところ、チームメイトが前向きに働けるかどうかは 前向きなチームメイトが実際に戦力になるかと同じくらい影響がある。 合わない仕事の歪みがあると、お互い不幸になる。

このときは数日悩んだ末にごめんなさいやめときますと返事をした。 名残惜しさからしばらく眺めていたサイト上の求人案内は数カ月後に消えた。

今思えばコードを書かないなりに楽しく働けた可能性もあった気はするけれど、 適応できなかったら一段余計にホップする羽目になったかもしれない。 件のマネージャには感謝しているし、その会社もまともなところに違いないと思っている。

別腹の誘惑

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ホッピングの滞空中は早く着地したい誘惑に駆られる。 タダ飯でたしなめられたこの時の私もきっとそうだった。 ダイエット中、目の前にデザートがあらわれた夜を想像してほしい。 残すのはもったいない、一口だけなら、ギョーザのおかわりは我慢したから、このあと終電に向かってダッシュするから・・・ あらゆるクリエイティブな正当化が頭をよぎる(よね?)着地の誘惑は杏仁豆腐に似ている。

我慢できずに平らげてしまい、自分のうかつさに呆然とする夜もある。 うなだれて帰宅し、明日には明日の朝が来るなんてぼやきつつ布団に身を投げる。杏仁豆腐で人は死なない。


たぶん続く。写真: