steps to phantasien

星を観にいく

galaxy

あるとき Dark Matter Programmer という言葉をみかけた。ウェブやコミュニティに存在感のない、当人もそれを気にかけていない、プログラマをさす言葉。言い出しっぺの主張は、そういう人々の存在を忘れたり、見下したりすべきでないというものだった。

ダークマターはうまい比喩だと思う。正体がよくわかっていないらしいから適当さの粗が目立たず、その割にイメージは鮮烈。

他の比喩との相性もいい。たとえばスター。スタープログラマはダークマタープログラマの対極にいる印象だけれど、意図に立ち戻ればそれほど大げさでもない。何らかの可視性があればスターといえる。僕もあなたもスターなのがオンラインのコミュニティなのだろう。

さまざまな星

なんてきれいごとはさておき、乱暴に言ってダークマター以外がスターならスターにも色々ある。細かい隕石やガスなんかをさておくとしても、まず明るさ、等級が違う。あるいは自分で光る恒星か、照り返す惑星、衛星か。どれくらいの重さ、大きさで、どれくらいの距離にあるのか。比喩の勢いを借り、自分はどんな星かとぼんやり考える。

明るい星になりたいと昔は思っていた。すぐそばのきらめく星をみつめ、同じように瞬こうとしていた。それは惑星的な情熱だった、といえばしゃれてるけれど、要するにワナビーだった。自分が恒星的な資質を欠いていると気づくまでには時間がかかった。光っていれば、何でもだいたい同じに見える。でもいちど気づいた違いは無視できない。だてにずっとみつめていない。

星を観るのは好きだ。星でいるよりも、たぶん。今の職場にいると、眺める星に困らない。知能、情熱、体力、視座。恒星的とはどういうことか、星々の輝きを通じた学びがある。といってもこれは、星でなく天文学者としての学び。光の足しにはならない。星を輝かせるのは学びでなく化学反応だ。秘めたる熱を周囲の力場が引き出し、星はより強く、明るく燃える。この星フェチが言うんだから間違いない。

自分の中には恒星たる熱や触媒がない。そう学ぶのは、星たる身には嬉しくない体験だった。一方で惑星的たることの意味を知るのは、星好きとして目を丸くする瞬間でもあった。

星団

ダークマターの比喩が記憶に残っていたのは言葉遊びの妙だけが理由でもない。最近の自分はまるでダークマターだと感じ、けれどそれは発案者の言わんとするところから外れているように思え、気にかかっていた。けれど星の比喩を頼れば理由はわかる。周りの恒星たちが明るすぎて自分という星が観測できない。巨大ハイテク企業なんて大星団みたいなものだから、なかにまぎれた薄暗い惑星が目につかなくても仕方ない。

あたりの輝きを集めるべく表面を磨き、明るい惑星を目指すこともできる。でもその気にはなれない。星の好みにうるさい身だ。光ればいいってもんじゃない。自らの輝きを際立たせるべく暗闇に飛び出す人もいる。星団界隈では人気の選択肢だけれど、恒星らしい熱量がないとさびれた星になってしまう。かつての面影だけがまぶしい。

そんな星々の邂逅を一望できる星団の中は、星好きにとって夢のような場所だ。あちこちで星が生まれ、燃え、消えていく。外からは窺い知れない細部が見える。ぱちぱちと炎の弾ける音すら聞こえるような気がする。飽きる事が無い。

超新星

今の会社に入るとき、きっと何かすごいことが起こるという曖昧な期待があった。何かすごい事を起こすという星としての野心と、何かすごい事に立ち会えるという星好きの希望が混じり合っていた。

去年 Blink がフォークした日、WebKit という星座の中に紛れ込もうと軌道を進めていた星の自分は身を焼かれる思いをした。天体愛好家の私は歴史的瞬間の興奮に身を震わせ成り行きをみつめた。何かちょっとした事を起こす淡い希望は燃え落ち、何かすごい事件がおきた。

閃光が去ったあと、私は落ち込んでいた。けれどそれは大星座が終わる失望だけでなく、撮り逃した決定的瞬間への落胆でもあった。フォークという決断はどのように生まれたのか。言い出した当人はどうやって周囲のステークホルダーを巻き込んだのか。何が起きたのか。いくら情報共有を徹底されたところで、空気は海を渡らない。もっと近くで見たかったのに!

そのあと半年ほどはいまいちやる気がおこらず、ぼんやりと働いた。そしてふと、バーンと引っ越したら良いかもしらんと思いたち西海岸の田舎に転勤してみた。場所を変えれば気分も変わるかな、くらいのつもりだったけれど、今思えば二つ目の落胆が背中を押したのだろう。(このへん融通が効く今の勤務先には感謝している。)

今の仕事は引っ越し前と特に変わっていない。でも前とは違う楽しみがある。いま私のいるチームは Web Components を出荷すべく色々やっている。 Web Components に対する世の中の反応は、期待もあれば懐疑もある。今はその温度を肌に感じられる。標準化の会議には家から車でいけるし、ウェブ開発者コミュニティや同業他社への売り込みにも紛れ込める。

あるいはウェブの風評をみながら同僚たちと一喜一憂する。たとえば 自分の開発している HTML Imports をあの Steve Soundersプレゼンでディスっている!しかしその批判は織り込み済みにつき最新の仕様では直してあるぜやーいやーい!すかさず誰かが Twitter で反論・・・みたいな流れは太平洋時間にいる方がリアルタイムに盛り上がれる。

この盛り上がりと仕事の進みは直接関係ないというかついった見てないで働けと思わなくもないし、多くの人にとってはどうでもいいことに違いない。むしろ自分の書いたウェブ標準やコードを四方八方からつつかれるのは結構ストレス。しんどい。それでもなお、テクノロジが生まれる瞬間を内側から見る興奮は私にとって代え難い。

星間飛行

煤けた惑星の限界はわかっている。私が自らの手で、すごい何かを起こすことはない。曖昧な星の夢はいつか消えてなくなった。本当に何かが起こるとき、その中心にいるのは輝く恒星たちであり、天体愛好家ではない。

とはいえ私は単なる愛好家でなく、いちおう少しは星もやってる。 おかげで Steven Levy のような天体観測プロフェッショナルが決して見ることの出来ない瞬間に、単なるアマチュアの自分が居合わせる事だってできる、かもしれない。星にしか見えない景色は、しょぼい惑星にもある。成り行き次第では視界を横切るかすかな影にすらなりうる。もしかして、運が良ければ。

どうすれば明るい星々の間に入り込めるのかはまだわからない。プログラマを巡る物語はみな、それぞれの星が明るく、そしてできるだけ美しく、自らを輝かせようと歌う。星は暗闇でこそ美しく光る。その枠組みの中であかるい星のそばにいられるのは、同じくらいあかるい光をもつ星だけ。なけなしの放射と引き換えに、暗い星がまばゆい星々の間を巡る事はできるのか。

これは自明な問いではないし、競い煌めく幾万の真面目な星たちに後ろめたくもある。けれど私は星である以上に星を観るのが好きで、星空が好きだ。そしてだからこそ、煤けていようが荒れていようが星でありつづける必要がある。私の宇宙船が、そこで碇を下ろせるように。このごろは自分の仕事をそう捉えるようになった。

明るい星たちに話しかけられるのが、まえは少し辛かった。その光に暴かれる荒れた地表がみじめだった。 今は天体ショウの一幕として惑星役をつとめる。滑稽でも出番があればいい。愛好家が、その舞台を見届けているから。


写真: https://flic.kr/p/f4txtm