2004-11-10

近況

Web で人気の Ruby 版人狼 はそのロールプレイ性が楽しいらしい. 私がたまに参加する 33rpm.jp 製人狼クローン 村びとくんと人狼くん はそのまったく逆で, ほとんどロールプレイなし. ピーターも村長もいない. ただひたすら推理と戦略を遊んでいる. なかなか殺伐かつ軽快で良い. ただえらい勢いで進歩するプレイヤーの推理能力に, たまに参加するだけの軟弱プレイヤーである私はついていけない. 村人になっては喰われ, 狼になっては吊るされている.

利己的な村人

33rpm バージョンに参加していて感じたのは, もしかしたらロールプレイの有無はゲームの質を決定的に変えるのではないかということ. ロールプレイの場合, 登場人物(キャラクタ)らは人格をもち死を恐れる. 一方 中の人 (プレイヤ)はゲームでの勝利を目指す. ゲームは 村人チーム/人狼チーム というチーム間で戦われる. だから理想的なプレイヤは担当キャラクタの生死よりチームとしてゲームに勝つことを優先する. その結果, プレイヤは "利他的に考えながら利己的に振舞うこと" を要求される. 自分のキャラクタは死んだ方が都合がいいと思っても死ぬのを恐れているように発言しないと不自然になってしまう. ロールプレイありの人狼は, 推理と同時にこの矛盾をやりくりする様子が傍目に楽しい.

たとえば勝利の鍵を握るアクション "カミングアウト(CO)" は, 一方で狼に狙われる危険を伴う. ロールプレイありの利己的な世界でこの利他的な行動を成り立たせるには何か仕掛けがいる. その仕掛けはたぶん "勇敢さ" とか "道義的責任" みたいなプレイヤが共有している背景(物語) だと思う. 能力者は村人を救う責務を負っている, そんな無意識の同意を感じる. (推理小説の探偵がもつ図々しさやガンダルフのババーン感みたいなものね.) だから弱者である村人はふつう CO しない. こんな風に利己性と利他性が入り乱れるのはロールプレイならではの楽しみだろう.

ロールプレイなしのゲームだとこういう制約はない. だから身も蓋もない発言や戦略があらわれる. たとえば "情報量の少ない初日のリンチで能力者を殺してしまうと困るので, 村人は CO しよう. あなたをリンチにします." なんて作戦がありうる. これは極端な例だけど, ロールプレイなし版の身も蓋もなさをよくあらわしていると思う. 情緒も何もない. かわりに, ゲームとして戦略の自由度はロールプレイなし版の方がずっと高くなるはずだ.

このふたつの路線は別のゲームとして棲み分けていって欲しい. 特にロールプレイ版はログを読むことにも大きな比重がある. 読者の視線を意識してプレイされたゲームのログは楽しい. 世の中には テーブルトーク RPG のリプレイ集なんてものもあるくらいだし. ゲームに勝つためのなりふり構わなさがそれを台無しにしてしまうと淋しい. 参加することに意義が...なんてのは外野教条的主張かな.

ロールプレイなし版は推理を支援するための仕組みを強化してよりゲームっぽくなるといいなあ. 記憶力に頼るのはつらいです. アホにも門戸を.

最近読んだ本 : ドーキンス VS. グールド (キム・ステルレルニー)

利己的な遺伝子ワンダフル・ライフ も楽しく読んだけど, 主張が競合しているのには気がつかなかった. ぼんやり者だ. 進化の説明に 遺伝子の淘汰 を重視するか 大量絶滅のような偶然を重視するか (これを 断続平衡説 という.) という論争. しかしそういう大雑把なフレームではなく, 議論の細部をよく見ていきましょうというのが本書. 著者の立場は (多くの生物学者がそうであるように) ドーキンス寄りだが, どちらかが一方的に正しいわけではないし, 着目する時間的スケールによっても議論のポイントは違ってくると解説する. なかなか説得力のある主張だ. 進化についても, 環境への適応だけでなく複雑さの増加という視点からの比較を欠かさない. (淘汰によって複雑さは増すのか?という話ね.) そのほか二人の科学観の違いについても言及しており, そこも面白い. 読みどころ多し. こんなのを文庫で出すとは筑摩書房は太っ腹だ.

私は ミーム というアイデアがすっかりお気に入りなので, 細かい事はさておきドーキンスに肩入れしてしまう. 進化生物学の周辺はもう少し色々読んでおきたい気分になってきた ... そんな気持を見透かしたかのように参考文献が充実しているのも良いです. 生物系を勉強中のひとにインタビューもしつつ, 次なる積読を物色中.